先人に学ぶ② 賀藤景林 |
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![]() また、植林した木を伐採する場合は、農民の取り分を、これまでの五分から七分に引き上げて、植林意欲を高めた。この主君の意を受けて林政改革を支えたのが賀藤景林である。 彼は、山奥まで森をくまなく歩き、具体的な植林や保護計画を立案した。そして生涯で250万本ものスギを植林した。 その意志は長男にも引き継がれ、親子二代の努力で日本三大美林の一つ・秋田スギの基礎をつくり上げた。その偉業を讃え、「秋田スギの父」と呼ばれている。 ※ 絵は、「秋田杣子造材之画」を除き、全て進藤武インストラクターの作品である。 |
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![]() 1768年、久保田城下の下級武士・賀藤八郎兵衛景親(かげちか)の長男として生まれる。幼名は駒之助。母親の「きん」は、生後まもなく亡くなり、継母「すへ」の手によって保育された。ところが7歳の時に父親が33歳の若さで他界するなど、幼児期は極めて不遇であった。 1783年、満15歳の時に元服して清右ヱ門と改め、大御番勤務を命ぜられた。しかし、天明の大飢饉が起こった。その翌年、生き延びるために父祖伝来の家屋敷を売り払い、当座をしのぐとともに、一家4人が親類に離散することになった。1786年から19年間は、臨時の職務ばかりであった。 |
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▲バチソリを利用して材木を運ぶ(秋田杣子造材之画) | ▲運んできた造材を川岸におろす(秋田杣子造材之画) | |||||||||||||||||||||||
![]() 江戸時代末期から明治にかけて、伐採作業の様子を描いた「秋田杣子造材之画」がある。当時は、山に入り、伐採・造材などの仕事をする男たちを「杣子(そまこ)」と呼んだ。彼らは、20~40人で一組となり、杣頭の指示に従って行動した。人里離れた山奥での仕事がほとんどで、粗末な小屋に泊り込んでの作業であった。 |
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米、味噌、塩、塩魚などの食料は、入山する時に大量に運び上げた。山中では、山菜やイワナ、ヤマメ、キノコ、木の実などの山の恵みを採りながらの生活であった。伐採が進むにつれて、作業場所が奥山へと移動したから、杣子たちの仕事は厳しくなる一方であった。「秋田杣子造材之画」を見ると、冬期間、ソリを利用して急斜面を下る運材作業、冷たい川の中で筏を組み上げるなど、全て危険を伴っていたことが分かる。 | ||||||||||||||||||||||||
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![]() 急に太くなっている根元の部分を避けるため、足場を組んで作業を行った。真ん中の人は、ノコギリで木を伐っている。左端は倒す方向を確認し、受け口を開けている杣子。右端は、ノコ引きをし終わった所へクサビを打ち込み、倒す直前の様子が描かれている。 |
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![]() スギ皮を剥ぐと早く乾燥し、木に虫がつかない。だから、倒した直後、水分の多いうちにスギ皮を剥ぎ取る。乾燥したスギ皮は、屋根の材料など、建築用として利用された。 |
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▲仁別森林博物館「秋田杣子造材之画」 | ▲二ツ井歴史資料館「杣子の道具」 | |||||||||||||||||||||||
![]() 秋田藩に伐木用のノコギリが入ってきたのは、意外と遅い1836年のことだという。それ以前は、斧とクサビだけで大木を伐り倒していた。ノコギリを使うようになっても、伐木は、熟練の技と体力を必要とする重労働であったから、一人前になるには、数年の経験を要した。 |
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▲鉄砲堰(小型ダム、秋田杣子造材之画、秋田県立博物館蔵)・・・山間の流れが激しい渓流では、丸太で鉄砲堰をつくり、水を貯めてから破堤させ、木材を下流に押し流すという方法が用いられた。 | ||||||||||||||||||||||||
![]() 当時、秋田藩では、農民から納められた年貢米と院内や阿仁の鉱山から掘り出された銀、銅、山林から伐り出される木材が大きな収入源であった。藩の財政が苦しくなると、足りない分を木材の伐り出しに頼った。例えば、藩はまだ伐採していない木材を抵当にして、上方の商人たちから7回も前借りしている。さらに鉱山の製錬にもたくさんの木材を燃料として使っていたから、年々山林資源が乏しくなっていった。 |
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▲角材をつくる(秋田杣子造材之画、秋田県立博物館蔵) | ▲寸甫材に割る(秋田杣子造材之画、秋田県立博物館蔵) | |||||||||||||||||||||||
![]() さらに天明の大飢饉(1783年)が山林資源の減少に拍車をかけた。飢饉で食べ物がない農民は、山に入って勝手に木を伐り出し、それを売って飢えをしのぐ人も増えた。年貢が入ってこないので、藩の財政は益々苦しくなった。このまま放っておいては、山が丸坊主になるばかりでなく、農業用水の枯渇を招くのも時間の問題であった。 |
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▲名君・佐竹義和 | ▲開拓の父・渡部斧松 | |||||||||||||||||||||||
![]() 藩主の佐竹義和は、思い切った藩政改革を断行。新田開発の奨励やタバコの葉、生糸の生産、春慶塗、川連漆器、白岩焼などの工芸品の生産に力を入れさせた。さらに、身分の低い者でも能力のあるものは重要な役につかせ、思い切り腕をふるわせた。新田開発では、後に「開拓の父」と言われる能代市桧山の渡部斧松を登用している。林政改革では、後に「砂防林の神様」と言われる栗田定之丞と「秋田スギの父」賀藤景林の登用であった。 |
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▲漂泊の旅人・菅江真澄(秋田県立博物館蔵) | ▲「菅江真澄遊覧記1~5」(平凡社) | |||||||||||||||||||||||
義和は学問にも力を注いだ。明徳館をつくるとともに、菅江真澄に直接会って出羽6郡の地誌編纂を依頼している。それが縁で真澄は日記類を明徳館に献納している。それがために死後も散逸することなく、「菅江真澄遊覧記」が大切に保存され、今日では「秋田の宝」になっている。だから義和は米沢藩の上杉鷹山と並んで東北の名君といわれている。 |
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![]() 1805年、景林38歳の時に銅山方吟味役加勢(助手)に登用される。次いで財政方吟味役・木山方に抜擢された。森林行政は、郡奉行(地方政治の責任者)が行っていたが、彼はこれでは森林が農民の言うままに利用されやすく、藩の収入にもなりにくい面があると考えた。だから、独立機関たる木山方に移すことを主張し、この意見が取り入れられた。簡単に言えば、森林を農民の好き勝手には利用させないという厳しいものであった。 |
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▲絵:「米代川の筏流し」(進藤武)・・・県北の秋田スギは、米代川や阿仁川、藤琴川を下って二ツ井に集められ、ここから筏に組まれて能代湊まで運ばれた。 | ||||||||||||||||||||||||
1797年以降、郡奉行の管轄になっていた山林行政を、勘定奉行の下に置かれた木山方という専門機関に移した。1813年、依然として米代川流域を支配していた能代木山方を勘定奉行木山方の支配に移すと、彼は、本庁の木山方と、能代木山方を兼務。自らの足で山々を巡り、山林台帳などを整え、造林の保護に全力を尽くした。 |
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▲景林神社(能代市) | ||||||||||||||||||||||||
賀藤景林親子が植林した松が大きく育つと、能代の人々は飛砂の害から救われた。さらに松の落葉や松笠、枯れ枝などをひろって生活の足しにした家が千五百軒余りのうち約千軒もあったという。能代の人々は、賀藤景林を神様として敬い、幕末に碑を建て、大正時代には能代公園の中に景林神社を建立した。 |
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▲賀藤景林肖像画写本(進藤武) | ||||||||||||||||||||||||
参考文献・資料等 | ||||||||||||||||||||||||
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